今、自分の中で、迷いが生じています。
それは、「自己肯定感」という言葉をこのまま使い続けていいのか?
という迷いです。
私は、自己肯定感オタクですので、
その言葉自体も好きです。
そして、「自己肯定感」という言葉が、
世の中に浸透していることもうれしいです。
例えば、YouTubeで、
「自己肯定感」そのものをテーマにしたチャンネルもありますし、
そうでないチャンネルでも、対談や出演者の会話の中で、
ごく自然に「自己肯定感」という言葉が使われています。
日常の中でも、
たまたま、飲食店で隣の席に居合わせた友達同士のグループ、
サラリーマンなどの会話からもよく耳にしますし、
職場でも、(特に20~30代の若い世代の方の)
会話の中にネイティブに使われています。
しかし、その会話の内容や、言葉の使い方を聞いていると、
自己肯定感は高めなければならないもので、
(自己肯定感が低いのは良くないというジャッジがある)
その言葉のニュアンスからなのか、
自己を肯定することで高められると想っている傾向性が強いと感じるのです。
それにより、
自分を肯定できる要素ばかりに着目したり、
自分を肯定できる要素を無理に造ったりして、
自己肯定感を高めようとする傾向性も感じるのです。
その結果、自分を容易に肯定できない要素(ネガティブな要素)から、
目を背けることとなり、
目を背けられた(無視された)部分の自分も確かに自分の中に存在するのに、
その存在を否定していることになっている。
それに気付かないから、無視された部分の自分の自己否定感が
無意識に募り、自分が自分で無くなり、生きづらさを感じることに繋がる。
そういった図式が自身の中で想い描かれ、
自己肯定感という言葉の本来の意味が正しく伝わっていない傾向性が強い現在の日本の中で、
「自己肯定感」という言葉を使い続けると、
かえって、自己否定感を募らせてしまうことになるのではないか?
そう感じるのです。
自己肯定感という言葉の提唱者とされる高垣忠一郎氏は、
ご自身の著書の中で、
「自己肯定感の言葉の意味に気をつけてほしいということ」として、
以下のようにおっしゃられています。
『人間の自己肯定感は、存在丸ごとの自己肯定感ー自分が「あるがままの自分であって大丈夫」という感覚ーでなければならない。
そうではなく、人間の、ある部分的な能力や特性の評価に基づいて自分を肯定する自己肯定感は、いわば、「人材=誰かの道具」としての「自己肯定感」に変質してしまう。』
(『』内高垣忠一郎著「悩む心に寄り添う 自己否定感と自己肯定感」新日本出版社より)
本来の「自己肯定感」という言葉の意味も、同時に伝えていかなければならない。
もしくは、解釈がズレないような新たな言葉、別の言葉に変えて必要があるのではないか?
最近の心のモヤモヤです。
今日も最後までお読みいただきありがとうございます。
MindLabo代表 山本智香子